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造詣がないのに日本文学を読み漁る

『夜ふけと梅の花』を読んだ

太宰治川端康成志賀直哉芥川龍之介、…って読んでると、正直

息切れがしてくるんすよ。
すんませんうちのバカが…文学に造詣がないもので…

その、さ、言いにくいんだけど、さ。もう少し抜け感のある文学者はいないのか。余裕のある文豪は。
もうやだ!!!こんな、何が悲しくてこんな暗くて悲しい話ばかり読まなければいけないのか。志賀と芥川と川端と太宰の重さはなんなんだよ!

とくになんなんだあの地獄変…夢に出てきたぞ…

4人が揃うと晴れててもいつのまにか大雨になるんだ!!!ちくしょおおお!!!
これから日本文学デスロード四天王と呼んでやる!!!!!

 

って思ってたんですけど、思ってみたら、抜け感のある文学者、いる。凄まじい余裕感を持った文豪がいたぞ!!!!

夜ふけと梅の花・山椒魚 (講談社文芸文庫)

夜ふけと梅の花・山椒魚 (講談社文芸文庫)

 

 

山椒魚 (新潮文庫)

山椒魚 (新潮文庫)

 

井伏先生。あなた抜け感のある文豪ですね! 

あらすじ

日雇いの校正係の「私」は、去年三月二十日午前2時頃、顔面が血まみれの男・村山十吉に絡まれ、5円札を心ならずも受け取ってしまう。次の日に返すといったが、所用で返せなかった。そのうち、「私」はどんどん村山に対して恐怖心が湧いてきて…。

登場人物

「私」…語り手。日雇いの校正係をしている。ちょっとビビリで思い込みが激しいかも。

村山十吉…夜中に顔面が血まみれというマジで怖い姿で登場した男。質屋の番頭をしていたことが明らかになる。乱暴な性格のようである。

田和安夫…「私」の友人。商会に勤めている。暗くなりがちな私を明るくしようと女性の派手な衣服をもってきたりする。

✿「夜ふけと梅の花」レーダーチャート

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評価基準を変えたよ その、デスロード四天王に適用してきた評価基準だとまったく評価が機能しない見事にベクトルが違う文学者なんでな
文章のみごとさ:軽妙ということばが似合う文章です。文章一つ一つ考え抜かれてる感ある。
人情・愛情:の塊の井伏文学です
話の清らかさ:清らかじゃねーな、うん。
元気になれるか:ほっこりしたあと、そこそこ元気が湧いてくる
描写の暖かさ:ぬくい。あたたかいです。
構成の巧みさ:手堅い感じ。

 認知の歪みがもたらすユーモラスな話でした。「私」てんぱりすぎ。

変な言い方だけど、人を見る目が温かい…ぬくい…ぬくいぞ…晩秋だけど春だ…

なんだろ…ハマりそうだ(実はこのノリで井伏著書をアマゾンで多量注文した)

文学がさあ…暗いなんてさあ…嘘だよな…うん
…根暗のために文学があるのならば、あまりに狭いじゃないか……根暗なんて世界の人口のせいぜい半分にも満たないのにさあ…

あとあまり本筋に関係ないのにちょこちょこでてきて、タイトルにもなっている梅、梅がでてくることで芸術性?てゆーのかな?なんか話全体が、非常に美しくなりますね…梅がなかったらたんなるユーモラスな話になってしまう。

✿認知の歪み

 面白かったのが、やっぱり「認知の歪み」。お笑いでも良くある、「勘違い」に近いものかも。

あらすじだけ読んでいると、「私」は村山からなんども脅されているかのように見えますが、「私」と村山は5円札をやりとりして以降、一切会ってもいませんしなんら連絡もとっていません。
さらに、村山は酔っ払っていた上、「私」のとっさの判断のため、「私」が誰だかわかりません。「私」の名前も知りません。ひょっとして忘れているかもしれません。

つまり、「私」一人が村山に対して恐怖心やら何やらを抱いているわけで、会って実際の人物を確認しないことで、さらにその恐怖心が深まってしまうという話になっています。

そこを読者は知っているため、「私」の逡巡がとても面白く、また愛らしくみえてしまいます。しかし一方で、こういうことって人間関係の中で、よくあるなあと思います。自分一人が妄想や被害妄想を抱え込んでいて、相手は自分を忘れている・関心がないかもしれないというの。

デスロード四天王ウエッフゲッフ有名な文学者ですらあります。いっそクリエイティビティの高い人たちだけあって感性が繊細ゆえに一般ピープルよりひどいかもしれない。*1

✿主人公が愛おしい

一方、『夜ふけと…』の「私」が悲劇にならず、ユーモラスに終始したのは、村山への認知の歪みが修正されるところで終わるからだと思います。

「私」は相手の様子もわからない、被害妄想もめちゃくちゃ湧いてくる、どうしようどうしよう、5円札こわい状態のなかで、行動を始めます。村山の勤めている質屋に偵察に行くのです。
しかしそこには村山はおらず、逆に村山が店から逃げた事や、村山が人として最悪だっげふっげふ、勤め先とトラブルを抱えていた事を知ります。

そして、主人公は事実を知る事で安心し、酒を飲みまくります。村山が襲ってくる事はないとわかったからで、なおかつ勤め先とトラブルを抱えていたという弱みを握ったからです。

うん…こういう…行動、一歩踏み出すってできないなあ…。踏み出したいけど踏み出せない。「私」の場合は、恐怖感においつめられてでした。なんとなくここ好き。勇気ではなくてヘタレによって一歩踏み出すところが共感できる。

✿自分が村山十吉ではないか?

最後、不安は解消したにも関わらず、一瞬、村山十吉になってしまう幻覚に「私」がおそわれるところにハッとしました。
たしかに、夜中血まみれの男に襲われるのは怖い。なんども男に襲われる妄想をしてしまう。そして、自分と同化してしまうくらい追い詰められてしまう。つまり、ある種この「私」は病的妄想に襲われていたという事です。そして、この妄想が病的妄想の最後の爆発であると…。自分は何かに取り憑かれてたのではと…。
ユーモラスだった今までの話が、いきなり表情が変わってふっと突き放されるような感じです…。

とはいえすぐにユーモラスに戻るのが精神に良かったです。主人公は救われたんだから、もう悲劇的になる必要はなく、楽しく酒飲んで騒いでいい気分になってればいいのが。 

✿言葉メモ

或る夜更けのこと、正確にいえば去年の三月二十日の午前二時頃

さっそくこの冒頭で噴いた。

入れてしまうまでは僕のものだから、マントの悪口を言うのは止したまえ

 かわいすぎる。あと、温かみがある。質屋にマントが古いだなんだと言われた時のセリフ。

今年もまた梅の花が咲き、すでに昨今では散りはじめた。弁天町の邸宅の高い塀の上に枝をさしかわした古木もよく咲いた。

なんとなくこの梅の描写が好き

俺は酔っぱらえば酔っぱらうほど、しっかりするんだぞ。びっくりさせやがって、村山十吉!やい、ちっとも怖くはないぞ村山!出てこい、村山十吉、早く出て来んか!

最後の厄落としのようなこのセリフ。これで「私」は完璧に「村山十吉」という概念から解放されます。なんでか愛嬌があるのがふしぎだ。

 

次は、井伏先生の大学の同窓生で同じクラスだった横光利一の『御身』を読もうと思います。

*1:井伏の弟子で親友でもある太宰と井伏の尊敬してやまない(と随筆から感ぜられる)志賀の関係がそれに近いかなあ…とお互いや周りの資料をちょっと読んでいて思います。いや今、青空文庫の如是我聞と志賀直哉全集の「太宰治の死」がちょうどあってな

太宰は志賀のことを如是我聞で攻撃していて、これだけ読むと「何をされたんだろう彼は志賀に」「故郷でも焼かれたのか」「彼女を取られたとか」「…び、ビール瓶で殴られた…!!!?最近噂の!」と考え込んでしまうのですが、志賀自身は

「太宰君の小説は八年程前に一つ読んだが、今は題も内容も忘れて了った」
「私は不幸にして、太宰君の作品でも出来の悪いものばかりを読んだらしい」
「私は(略)太宰君に就いても、自身ペンを執って、積極的に書くつもりはなかったが、座談会で…(略)…思っている事を言ってそれらの人の心を傷ける結果になった。」

うん…少なくとも故郷は焼いていないし彼女もとってないようだ。ただ、ビール瓶で殴ったのではなく、なんか仕事の都合で太宰作品を読んだところ感性に合わなかったので軽率に批判しちゃったらしい。
さらに彼がにょぜったあと自殺したことについて、

「太宰君の心中を知った時、私はイヤな気持になった。私の言った事が多少ともその原因に含まれているのではないかと考え、憂鬱になった。」

如是我聞については

 「イヤな気もしたが、それ位の事は私も云われた方がいいと云うような一種の気安さをも一緒に感じた」
「太宰君の場合は死んだ人の事だし、読まないのは悪いような気もしたが、矢張り、読む気がせず、読まなかった」

  とあり、個人的には二人の関係に非常なる面倒くささと薄ら寒さを感じています。晩秋なのに冬の気分だ。死の砂漠かここは。しかも二人、知り合いじゃない。大切な事なのでもう一回言うけど、知り合いじゃない。知り合いではなくてもこの調子だから、出会ったものは死闘を演じなくてはいけない、北斗の拳の世界か何かなのか文壇は。
この死の砂漠状態に対して、井伏本人は

(太宰は志賀に)二行でもいいから讃めて貰えばよかった

と「そういう事だったのか…」という鋭い事を言っています。…文学者というのは面倒臭い生き物だなあ。
なのでかどうかはしりませんが志賀は

「「人間失格」の第2回目では私は少しも悪いとは思わなかったのだから、もっと沢山読んでいれば太宰君のいいところを見出せたかもしれないと思った。」

と言っています。……文学者というのは面倒臭い生き物だなあ。
これは片方の無関心と片方の被害妄想によって引き起こされた認知の歪みによる先入観が凄まじく衝突した結果として起きたと考えられる、これはひどいとおもわれる事例です。